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天正十年六月二日のことでございます―


天下統一を目前にした
織田信長様が、

 

家臣 明智光秀殿の謀反により討たれました。

 

世に言う本能寺の変でございます。

 

しかし、焼け跡からは信長様のご遺骸は見つからなかったと聞きます。

 

また、この変事には

 

秀吉様、家康様や朝廷など

 

多くの陰謀説が囁かれております。

 

真相は未だ謎・・・

 

 

 

 

そこで本日は

 

森蘭丸殿ほか

 

信長様ご寵愛のお小姓の視点から

 

戦国絵巻“本能寺之編”

 

を紐解いてまいりましょう。

 

本能寺の変  黒幕説

 

明智光秀による歴史書には記されるが、その黒幕がいたという説は歴史家の間でも有名である。

この説の根拠は、秀吉の信長に対する必要ないと思われる援軍要請である。

秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由により高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の1万5000ほどでしかなく、救援など不要であったと思われる。

では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。明智光秀はそこを狙って「本能寺の変」を起こした訳であるが、一つだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。ところが秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと言われている。

また、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ出来ない、「本能寺の変」を知らせる使者は果たして、本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ等について、疑惑が持たれている

変の直前の天正10年5月15日 家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となったが、「これらの催しごと(家康の饗応)の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対を言われることに堪えられない性格であったので」光秀を折檻し饗応役を解いた、とフロイス「日本史」にある。

ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、『太閤記』にあるような「魚が腐っていた」といった ような表の理由ではなく、実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説が多い。
また、本能寺の変の後、光秀は家康に匿われ「天海僧正」と名を変え、家康の右腕として活躍したという説もある。

織田信長は足利義昭を将軍として上洛を行ったが、程なく信長と義昭の間に対立が生じ、その結果義昭は追放され室町幕府は滅亡した。また信長は、時の正親町天皇とは当初協調路線をとっていたが、しだいに自らを神格化するような行動を取り、さらには朝廷が決定する暦の制定にまで口をはさむようになった。朝廷は、まず信長を右大臣とし、更には太政大臣、関白、征夷大将軍のいかなる官位をも授けると打診したが、信長はそれを辞退。その一方で京都で馬ぞろえ(軍事パレード)を行い、朝廷を威嚇したとされる。この様な行動から、信長は天皇を廃して自身が日本の王になろうとしたのではないかという説がある。そのため、朝廷を敬う明智光秀によって本能寺の変で殺されたとされる。しかし、近年の研究では、天皇に譲位を迫ったという史実的根拠がなく、また光秀自身も朝廷懐柔されていた記録がないため、有力視されていない。

出展 Wikipedia


 

 

 




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