作品 五

作品 一

作品 四

作品 二

作品 三

朗読 小川もこ

朗読 森 雄一

朗読 みんしる

朗読 山蔭大雄

朗読 DJ ARCHE

作品 六

朗読 光  邦  

朗読  小川 もこ


               知覧特攻機地の思い出

                              永崎 笙子

 <出撃前夜>

  特攻隊の隊長は、毎日、戦闘指揮所へ出撃命令の授与の為に出頭します。
 兵舎に帰ってこられる隊長のお顔が普段とは違うのを見ると、私たちはそれが
 何を意味するのか、すぐに察しがつきました。
  その時私たちは、この門出に「ご成功をお祈りします」と言っていいのか、
 言葉に迷いました。隊員の方々には確実な死が待っているからです。私たちは
 言葉を失い、ただ黙って頭を下げるだけでした。出撃日を知らされた隊員の中
 には、兵舎で頭から毛布をかぶって横になり、長いあいだ身じろぎ一つしない
 方もおられました。

  出撃の前夜は壮行会があり、酒を酌み交わしながら隊歌をうたったりして、
 にぎやかに過ごされたあと、、薄暗い裸電球の下で遺書を書かれたり、別れの
 手紙をお書きになったり、あるいは、そっと抜け出て三角兵舎の屋根に腹ばい
 になり、月明かりの中で何かを書かれている方もいらっしゃいました。
 これはあとでわかったことですが、先生と生徒一同に対する感謝の手紙でした。

  そして、それらの書簡や遺品は、私たちが帰るまぎわになると「家族の許へ
 送ってくれるように」とたびたび依頼を受けました。隊員の私信は厳しく検閲
 されていながら、幸いなことに、私たちは所持品の検査を受けることもなく無
 事に家まで持ち帰ることができました。
 家に帰ると早速、発信人を自分の名前にしたり、住所を自分の番地にして投函
 しました。

 <出撃>
 
  ある日、私たちは当番兵から、特攻機におにぎりを二個ずつ積み込むように
 言われました。
 ただ、おにぎりを配るだけでは、どうしても私たちの気持ちをあらわすことが
 出来ないような気がして、機中の隊員お方に桜の小枝を差し上げましたところ、
 隊員の方に大変喜ばれ、「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返し言われ
 ました。
 その様子から、「時が来れば何の未練もなく散ってゆく桜の花のように、武士
 のいさぎよさを見た」と言った人もいました。

  それ以来、私たちは出撃する特攻機の操縦席を、桜の花で飾るようになりま
 した。当時、知覧は桜の盛りでした。

  四月十二日の朝のことです。私たちは、出撃される特攻隊の方々に花の首飾
 りを作って上げようと思い、田圃に下りてレンゲの花を摘んでいました。そこ
 へ、岡安明少尉が通りかかり、突然立ち止まると胸の階級章をはずして、私た
 ちの方へと投げられたのです。そして、そのまま飛行機のある方へ立ち去られ
 ました。

  その瞬間、私たちはハッとしました。くるべき時がきた、二度と再び会うこ
 とはないであろう、自分は階級にとらわれず出撃する、といった決意のしるし
 として受けとりました。岡安少尉は兵舎には帰られず、その日の午後四時頃、
 そのまま出撃されました。
 
  特攻隊の中には、兵長、伍長、軍曹、曹長、少尉、中尉、大尉など、いろい
 ろな階級の方がいらっしゃいました。しかし、私たちには、特攻隊員同士は階
 級の上下というよりも、対等な人間としての温かい付き合いの中で、一緒に死
 ぬ地に赴く仲間と言う印象を強くうけました。
 
  出撃の時刻が近づくと、振武隊ごとに戦闘指揮所の前へ整列して、軍司令官
 または作戦参謀から激励の言葉を受け、皇居のある東の方へ向いて遥拝したの
 ち、別れの盃がかわされました。出発までのひとときを、車座になって隊歌を
 歌ったり、恩賜の煙草をふかしたりして思い思いに過ごし、やがて搭乗時刻に
 なりますと、黙って顔を見交わされたり、肩をたたきあってから、自分の飛行
 機に向かって散って行かれました。

  知覧基地は、民間人が飛行機へ近づくのを厳しく禁じていましたが、特攻隊
 の方々が苦心して出撃の日をご家族へ知らせることが出来たのでしょうか。そ
 のうちに特攻機を見送る人々の姿が、戦闘指揮所近くに見受けられるようにな
 りました。

  ある日のこと、搭乗したばかりの特攻隊員のところへ息せき切って走りよる
 初老の男の方がいらっしゃいました。ふたことみこと言葉を交わしてから来て
 いた羽織の紐をもぎ取ると、それを隊員に差し出しました。二人は手を固く握
 りしめたまま、身じろぎもしないで思いを込めた眼差しを交わしていました。
 その様子から、その男の方が、隊員のお父様であることがわかり、胸が熱くな
 りました。

  やがて羽織の紐を乗せて特攻機は飛び立ちましたが、機影が開聞岳の向こう
 へ消えたとも、乱れた羽織姿のままで南の空をいつまでも見つめながら、悄然
 と立ちつくしておられました。
  親子のきずなを羽織の紐に託して永遠の別れを告げられたその情景に、私た
 ちは思わずもらい泣きをしてしまいました。

  離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら大別に三機編隊を組み、編
 隊を組み終えると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下しました。そして、みんな
 一様に三回、翼を左右に振りながら最後の別れを告げると、急上昇して開門岳
 の彼方へ消えていきました。
 
  基地に残った隊員や整備兵たちは、いっせいに帽子を振り、私たちも桜の枝
 やハンカチを振って見送りました。機影が見えなくなってからも、私たちはし
 ばらく呆然と立ちつくし、その後で急に襲ってkる激しい悲しみに堰を切ったよ
 うに泣き出しました。
 でも、私たちは涙の乾かないうちに、また次に到着される特攻隊の方々をお世
 話しなければなりませんでした。そんな悲しみに堪えながら三角兵舎へもどる
 ことがたびたびでした。寒々と静まり返った兵舎内に足をふみいれますと新た
 な思いにかられて、とめどもなく涙が頬を流れ落ちました。

 <むすび>

  生あるものは必ず滅し、会えば必ず別れなければなりません。人との出会い
 は、別れへの前兆でもあります。特攻隊のの方々との出会いは、ほんのつかの
 間の出来事で終わりました。そして、さまざまな状況は50年の間に目まぐる
 しく変わっていきました。人はよく「戦争は終わった」といいます。でも私た
 ちの心の中の戦後は終わらないままに今日まできました。

                                                    

朗読   光  邦


あまりに緑が美しい
今日これから 死にに行く事すら
忘れてしまいそうだ。

真っ青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲
六月の知覧は もうセミの声がして
夏を思わせる


小鳥の声が楽しそう
"俺もこんどは小鳥になるよ"
日の当たる草の上にねころんで
杉本がこんなことを言っている
笑わせるな


  智恵子 様

   晴れの出撃の日を迎え、便りを書こうとすると伝えたいことは、うんとある。
   ただし、そのどれもが今までのあなたのご厚情にお礼を言う言葉以外の、何もので
   もない。
   至らぬ自分にかけてくださったご親切、全く月並みな言葉では伝えきれぬが、「あ
   りがとうございました」と最後に心から言っておきます。

   今はことさらに過去における長い交際のあとはたどりたくない。
   問題は今後にあるのだから。
   最後にあなたと婚約をしていた男として、散って行く男子として、女性のあなたに強
   く伝えておきたい事がある。
 
   あなたは過去に生きるのではない。勇気を持って過去を忘れ将来に希望を見い出
   してください。
   あなたの幸せを願う以外には何もない。
   そして穴沢利夫は現実の世界にもう存在しない。

   自分の意思で、強く生きて、過去の利夫をきれいに忘れ去るべきこと。
   懸命なる補正は、よき妻となり、よき母となることを、最上の道と利夫は考えている。

   すでに桜も散り果てた。
   大好きな若葉の候がここへは、じきに訪れることだろう。

   智恵子 会いたい 話したい 無性に…


   智恵子よ   幸福であれ

                                            穴沢 利夫

朗読  DJ ARCHE

上へ 

 
   米軍将校の顔がぼんやり見えてきた。じっと私の目をのぞきこんでいる。「大丈夫
  だ。生きている」英語が聞こえてきた。
  私が寝かされていたのは米軍駆逐艦の甲板であった。乗組員が担架の周りをあわ
  ただしく出たり入ったりしていた。私は尋ねた。 「もう一人いたはずだ」だれも答えて
  くれなかった。

   昭和二十年(1945年)五月二十五日早朝、私は最後のたばこを吸った。
  いろんな思いが浮かんでは消えた。悲壮感は特になかったが、任務は忠実に果た
  さなければならにと自らに改めて言い聞かせた。
 
   四時五十分。まだ暗い中をわれわれ特攻攻撃の十二機は離陸した。
  三機ずつ編隊を組んで進路を南に取る。中国山地を越える頃、ようやく東の空が明
  るくなってきた。「ああ、あの辺りに両親が住んでいる。どうかお幸せに」そんな感傷
  がわく。

   飛行を続け右手に種子島が見える頃から、厚い雲が低くなってきた。司会も暗くな
  る一方だ。思い切って海面すれすれを飛ぶことにした。
  そのうち、雨が強くなってきて機体をたたく。悪天候の中、低空を長時間飛ぶのは危
  険だ。大切な飛行機を無駄にしてはいけない。特攻突撃でも飛行困難の事態が起き
  れば引き返すことが認められている。 友軍機はエンジン不調や悪天候などで次々と
  引き返した。記録によれば、 攻撃隊十二機のうち、飛行を続けたのは私の機一機だ
  けになっていたようだ。

   雨の中を飛び続け、午後十時になろうとしていた。飛び立って五時間。航法計算上
  は沖縄本島に近づいている。島には標高二百〜三百メートルの山がある。視界ゼロ、
  低空飛行なので山が見えたときは遅い。「ぶつかるぞ。どうしよう」。高度を上げようか
  と思っていると、突然、雲に切れ間が出来た。 切れ間に戦艦と思しき敵艦と駆逐艦数
  隻が見えた。

   戦艦は射撃を開始した。「左、急旋回」。千巻には目もくれず、空母を求めて北上し
  た。 戦闘機は貴重だったから、「極力、空母を狙え」が暗黙の了解だった。

   途中、 再び乱雲に突っ込んだ。何分飛んだだろうか。突然、被爆した。私の前を弾
  丸が下から突き抜け、きな臭いにおいが座席に充満した。小山飛曹と吉田飛曹長が
  同乗していた。 伝声管で「小山」と叫ぶが返事がない。レバーを「吉田」に切り替えよ
  うとしたが、機は左に傾き滑って落ちる。右手近くに重巡洋艦らしきマストが見えたと
  思った瞬間、気を失った。

   体が何かに当たる感じで意識が戻ると、海の上でちぎれた翼に波で打ちつけられ
  ていた。 翼の向こうに吉田飛曹長が浮かんでいるのが見えた。 彼は重傷を負いな
  がら「長谷川中尉」と呼んだ。手を握って「しっかりしろ」と叫んだ記憶もある。米艦隊
  の真ん中だ。 悪夢をみているようだった。 また意識がとぎれ気味になる中、小型艇
  が近づいて来るのが見えた。
 
   我々を撃墜したのは駆逐艦「キャラハン」だった.乱雲の中、空母を探し、うっかりし
  て駆逐艦に気付かなかった。
  キャラハンの記録で、吉田飛曹長の最後の様子も分かった。

   「負傷した日本兵捕虜ふたりを収容」となっている。一人は私、もう一人は吉田飛曹
  長に間違いない。記録では、吉田飛曹長は五時間後、出血多量でなくなっている。
  キャラハンは翌朝、沖縄西方海上を慶良間列島に向け航行中、海軍の規則にのっと
  り遺体をキャンバスに来るんで水葬している。これを知って、本当にうれしかった。

   キャラハンの看護兵が後年、私にくれたメモによると、「吉田飛曹長は死期が近づ
  いたことを悟ったようだ。仏教徒のしきたりなのか両手を合わせて何かお祈りしてい
  た」ということだった。

   改めて申し上げるまでもなく、あの戦争は膨大な数の死傷者を生んだ。当時、私た
  ちは常に死と隣合わせで、私だけが特別だったわけでもない。そういう中から奇跡
  的に生き延びることが出来たことの意味は大変に重い、と私は考える。

  
   我々のあとを引き継ぐ若い人たちにお願いしたい。
   歴史を勉強しよう。予断や偏見のない目で、人類の歩いた来た姿を見つめてほしい。
   文化、宗教、戦争などの歴史、民族や国家の攻防の流れ、それを追っていけば、お
  のずから日本人として真摯な反省と忽然とした誇りが戻ってくるのではないか?

   最後に、あの戦場で私と行動を共にし死んでいった方へ、永遠に安らかにと念じつ
  つ、筆をおくことにする。

                                           長谷川  薫

朗読  山蔭 大雄

 
 圭子、父は笑って死にました。
 父は、君や国の為に喜んで戦場の露と消えました。

 父がこの世に残す思いはひとつ…。ただ、お前のことだけです。
 私がいなくなったあとは、お母さんの教えをよく聞き立派な女性になってください。
 どうか、若くして夫を失う不幸な母を幸せにしてあげてください。

 父の顔はもう見られないかも知れませんが、私の霊魂はいつも、そしていつまでも
 お前とお前の母の幸せを祈って守りつづけています。
 
 父はお前の三歳の姿を、私の魂は抱き続けています。
 どうぞよき女性になってください。

                          陸軍歩兵曹長  昭和13年7月22日
                                 ルソン島にて戦死  33歳


 お父さん、お母さん、私のいるマニラの夕焼けはとても綺麗です。
 夜になり、ひとりで窓から十字星を見ていたら…思わず泣いてしまいました。
 遠い故郷を思い出して、帰りたくなったこともあります。

 こちらで幼い子を見ると、妹や弟と重なり、今、どうしているのか?と、心配になります。
 私も18で陸軍看護婦として国を離れることになりましたが、これからの私の長い人生に、
 きっと役に立つと思っています。

 でも、ここが第一線の戦場なんだと思うと、働き甲斐を全身に感じて、色々なことをみんな
 忘れてしまいます。

 女の勇士として私は、自分の体が続く限り「白衣の人」として生きてゆくつもりです。

 皆様の御健康御多幸を祈ります。

                             陸軍看護婦  昭和20年7月10日
                           フィリピンルソン島にて戦病死 19歳