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物語に登場する 男娼(だんしょう)とは…?

 売春に従事する男性の事で、少年から青年、成人までのすべての年齢範囲に渡ります。男娼は、世界中の社会において、何時の歴史時代にも存在したと言います。売春婦は古代ギリシアにおいて、娼館に属する者が存在しましたが、男娼の場合も、同様なことが云えます。男性同性愛者のために男娼を置いていることを、特に、男娼を専門に抱える娼館は「男色楼」「男娼館」等と呼ばれたそうです。

 日本においては、古くから歌や踊りを披露する芸人が、売春に従事し、男娼もまた存在しました。売春のための稚児の少年を抱えた親方が、客に少年を一夜売ることで、利益を挙げる商売も存在した。江戸時代、男娼の世界においても、陰間茶屋の高級色子から、地方まわりの男娼芸人に至るまで、多様な姿で売春が展開していた。その多くは12歳で水揚げ(客を取り始める)をし、19歳くらいまで客を取り続ける者が多かったが、中には、20代後半になっても客を取っている男娼もいた。男娼は、体臭の元となるような食物はいっさい摂らず、常に口と身体を清潔に保つように心がけたそうで、又、成人すると御殿女中や後家などの女を相手にすることもしばしばあったそうです。
(参照:ウキペディア 他)

 定説では、日本の同性愛の文化は、平安時代の仏教界で開始されたとされ、仏教僧たちが留学先である中国から、この性風俗を輸入したものと考えられています。仏教界では、同性愛の対象となる<稚児>は仏の化身とされ、同性愛は仏性と交わる宗教的な意味を持っていたそうです。
 その後、同性愛は武家社会に普及してゆきます。それは「衆道」と呼ばれ、武家の一般的な風俗として盛んになりました。そこには年長者が年少者を愛し保護する一方、年少者は年長者からの愛を受けて忠義を尽くす…という支配的権力関係があったとされています。又、武士道の経典とも言える「葉隠れ」には、男性同士の愛を<至高の愛の形態>とする記述もあうようです。
 さらに江戸時代になると、同性愛は庶民にまで広がります。陰間(かげま)茶屋や女形歌舞伎を通じての同性間の売春行為、あるいは男色文学なども趣味の一つとして社会的に容認されていました。「東海道中膝栗毛」の北さんや白浪五人男の一人、弁天小僧菊之助などは「陰間上がり」(元男色売春者)という設定です。井原西鶴著「好色一代男」の主人公も男性と性的関係を持つ場面があります。
 ところが明治以降、西洋医学とキリスト教的な性倫理との出会いにより日本社会は急変し、同性愛は忌み嫌われるものとなりました。古来、日本社会は性というものを、医学や倫理の対象としてはあまり考えておらず、自らの性行動を<正常か異常か>と判別することはありませんでした。しかし明治以降、生殖や結婚と結びつかない同性間の性は、「医学的には異常、倫理的には罪悪」という同性愛に対する評価が、一般的になったようです。
(参照:ウキペディア 他)